〔アレクサンドロス3世のバトルドクトリン(1)〕
『得意技なくして戦術なし。戦術できずして戦略は成り立たない』というのは筆者がかねてから主張しているもので、あらゆるスポーツを楽しむ人々からは容易に理解すると賛同をいただいているところである。しかしながら、兵法書の名著と言われる「孫子」を初めとして、ローマ帝国のF.V.レナタス「軍事について」、クラウゼヴィッツの「戦争論」、ジョミニの「戦略提要」などは将たるの資質、統帥について記述していても"得意技"について触れていない。得意技のあり方について触れているのはフラー英少将の「機甲戦」と古代インドのカウチリアの「アルタサストラ」ぐらいだろうか?なぜ軍事上の名著が得意技(戦闘ドクトリン)について記述しないかという理由は、得意技は兵器の進歩、戦場の特性、将兵の特性、兵器生産力などによって変化するからである。戦闘ドクトリンは戦闘力の要素を理解していても、それを如何に組み合わせて「発見」「拘束」「擾乱」「機動」「打撃」のシステムは千変万化するからである。そしてその中から自軍が得意とするシステムを創造するかにかかっているからである。軍事史の世界では、第一分水嶺は火薬の発明である。そして第二分水嶺は内燃機関の発明であり、第三分水嶺は原子力兵器の開発である。第一分水嶺における火薬が武器として成熟するのに一世紀以上を必要とした。内燃機関がジェット・エンジンやロケット・エンジンとして軍事的に成熟するのに一世紀以上を必要としている。今日、原子力兵器も成熟するのに二一世紀一杯かかると見通してよいだろう。
アレキサンダー大王が世界史に残る戦史を残したのも騎兵と歩兵の戦術的組み合わせを開発したテーベのエパミノンダスから四〇年近い年月を必要とした。兵器は簡単に進歩するが、それを戦闘ドクトリンとして運用開発するには長年月を必要とするのだ。それまで騎兵はアジアで発達し、古代ペルシャは騎兵の運用に優れていたが、歩兵と組み合わせて運用することには慣れていなかった。戦闘ドクトリンは得意技と言われるようになるまで訓練しなければ使えない。"慣れる"ということがキー・ワードである。中国の春秋時代の軍備は主力が古代戦車であった。この時代の戦車は数頭の馬が曳く三人乗りで中央に貴族が乗り、右に弓射手、左に御者が乗った。戟と剣を武器とする歩兵は補助部隊の地位であった。しかし、長江(揚子江)下流の呉と越では湿地が多いので歩兵が主流であったが、歩兵は次第に中国各地において主流になりつつあった。フン族に対する戦闘に苦しんだ趙が騎兵軍団を創設した。これは戦国時代を通して中国全土に広がった。西欧では、テーベのエパミノンダスが紀元前三三一年、レウクトラの戦闘において騎兵と歩兵を巧みに組み合わせて協同戦法を開発し、騎兵を戦術的援護任務に歩兵を決戦と遅滞任務に運用した。ほとんど時を同じくしてシシリー島のシラキュースのデオニシウスもこのような運用を開発した。
しかし、歴史上、最初に科学的な軍隊編制を制定したのはマケドニア国王フィリップ二世である。彼は騎兵と歩兵と砲兵(カタパルトとバリスタ)を組み合わせた野戦軍編制を創造したのだ。フィリップ二世の息子、アレキサンダー三世大王は父の概念を発展させた運用者であった。フィリップ二世は装甲歩兵とシロイと呼ばれた無装甲歩兵とを組み合わせて新しい概念の軽装甲歩兵「ヒパスピスト」を創設した。これは約半世紀前にギリシャ・ペルシャ戦争において活躍した良く訓練された「ペルタスト」を発展させたものであった。ペルタストとは獣皮で作られた盾(ペルト)と投槍で武装した軽歩兵である。カタパルトとバリスタがこの時代に導入された。カタパルトは組操作で射撃する大型の弓である。その最大射程は四五〇メートル、有効射程は約一八〇トルであった。バリスタも組操作で射撃する投石器であった。その射程はカタパルトと概ね同様であった。このような大型の兵器は攻城兵器として運用されていたのであったが、フィリップ二世とアレキサンダー三世はこれらを運搬容易なように小型化して野戦に運用しはじめたのである。
〔図:バリスタ〕
小型の兵器はギリシャ戦争時代から大きな変化はなかった。マケドニアのパイク(歩兵槍)は「サリッサ」と呼ばれ、従来のパイクよりも長く造られた。鎧は次第に発達して重装甲歩兵を弓矢から防護した。紀元前三五九年、マケドニアのフィリップ二世は国王に就任すると徹底的にマケドニア軍の改編を実行した。彼が兵力劣勢にもかかわらず、次々の戦闘に勝利してギリシャを統一したのは彼の開発した戦闘ドクトリンにもとづく軍の改編によるものであった。戦闘ドクトリンというと難しいように聞こえるがスポーツにおける基本技の一つを得意技にしたものである。基本技とは「広く応用性がある合理的な力の組み合わせによる行使パターン」と言えるだろう。フィリップ二世が創造し、アレキサンダー三世が発展させた得意技は、フィリップ二世が人質としてテーベに拘束され、「戦術の父」と称されるエパミノンダスに仕えていたときに見習い盗みとったものである。そしてその奥義を使いやすいように軍隊を編制した。彼がエパミノンダスから盗んだものは「斜行陣」であった。フィリップ二世とアレキサンダー三世の指揮に対応する注意深い編制と訓練計画の密接な結合はたぶん、このあと一七〇〇年間――火薬が発明されるまでジンギス・カーンを除いて――のいなかる陸軍よりも優れていたと言われている。マケドニア陸軍の主力は歩兵であったが、打撃の骨幹は騎兵であった。マケドニア軍の歩兵戦闘陣形(ファランクス)はギリシャの戦闘陣形に基礎をおいているが、いくつかの点で改良していた。
第一に陣形の厚みである。ギリシャ軍は八~一〇列の横隊であったが、マケドニア軍は一六列となった。次に兵士の間隔である。ギリシャの戦闘陣形では兵士と兵士の間隔をできるだけ詰めて肩と肩とが触れあうほどの密集隊形で兵士は前方に向かってパイクを突きだし、または刀剣を真っ直ぐに突くか、振り下ろすだけで戦闘した。しかし、フィリップ二世は兵士の間隔を約一メートルに拡げた。これで兵士は刀剣やサリッサの操作が容易になった。それだけではない。第一列の兵士が戦死したり負傷したときに後列の兵士が前方へ進出して戦闘を交代するのが容易になった。装甲歩兵は二種類とした。軽装甲歩兵「ヒパスピスト」のほかに重装甲歩兵「ペゼタエリ」を設けた。この重装甲歩兵は長さ四メートル以上のサリッサを携行し、ひざまづけば全身を隠せる円形の盾を肩にかけ、短剣を帯び、胸当て、兜、手袋を着けていた。サリッサは保持場所を変えることによって四から五列の兵士の槍先が第一線に一斉に突き出すことができるようになっていた。第一線に突き出ている穂先密度が高い。重装甲にかかわらず重装甲歩兵は厳しい訓練によって、それまでのギリシャの戦闘陣形よりも容易に機動した。彼らは戦闘陣形を堅確に維持しながら前進方向を変える能力を持つようになっていたのである。マケドニア歩兵のうち、あらゆる戦闘形態にいっそう適応性のある歩兵は軽装甲歩兵であった。これはまさにマケドニア歩兵の精髄といえる。みかけからは重装甲歩兵のサリッサよりも短い二.四~三.〇メートルのパイクを持っていることによって見分けられる程度の違いであるが、装甲はかなり軽いようであった。戦闘陣形における兵士と兵士の間隔は重装甲歩兵と同じであって、敵方から見れば見分けられない。しかし、戦闘における運動は軽快・機敏であった。戦闘陣形全体として、またその軽装甲歩兵の戦場における機動力がフィリップ二世による改編のポイントであった。それまでのギリシャ各都市国家の軍隊の常識は、敵陣に対峙すると敵方に向かって真っ直ぐ前進することであった。左右に動けば、兵士の間隔が乱れて弱点を造るので避けなければならないとされていたのだが、マケドニア軍は敵陣に向かう前進方向を変換して斜行しても間隙が生じなくなったのだ。
(後編に続く)



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