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ハンニバルの戦闘教義(前編)

「戦略の父」ハンニバル

 「戦略の父」と呼ばれるカルタゴの将軍、ハンニバル・バルカ(紀元前247~183)は、父ハミルカル・バルカが祖国カルタゴの闘志喪失に失望して中部スペインに逃れたときに幼い時代を父に連れられて過ごした。10才であった。

父ハミルカルはふたたびカルタゴ(今日のチュニジアの北東端)に帰国してハンニバルを教育したが紀元前228年に病没した。19才になっていたハンニバルはスペインでカルタゴ軍を育成している兄のハスドルバルを慕ってスペインに行き、騎兵部隊の指揮官となった。この体験はのちに彼の戦闘ドクトリンに大きい影響を与えた。

 3年後、兄が暗殺されたので在スペインのカルタゴ軍の総指揮官となった。22才である。彼はその暗殺者のスペイン軍を追って北部スペインの攻略を開始し、翌年秋に激戦ののち北部スペインを平定した。

 それから1年後、彼はカルタゴに敗北の恥辱を与えた第一次ポエニ戦役の復讐のために立ち上がった。敵は日の出の勢いのローマ共和国である。

初期ローマ軍の戦闘ドクトリン

 ハンニバルについての歴史記録はすべてハンニバルを恐れ、嫌ったローマ人によって書かれたものである。そしてローマ軍はハンニバルから多くのもの学んだ。
そこでハンニバルと戦ったローマ軍の戦闘ドクトリンを最初に観察しておこう。ローマ軍の戦闘ドクトリンはマケドニア軍の戦闘ドクトリンと並んで近代軍の戦闘ドクトリンの基礎となっているからである。
ローマの歩兵陣は「レギオン」と呼ばれている。レギオン・システムは紀元前6世紀にセルヴィウス・ツリウスによって創設され、紀元前四世紀頃までにマルクス・カミルスによって改善された。
この陣形の基本的な考え方は第一に、市民による歩兵で構成することであった。ローマ市街周辺から十分な騎馬が得られなかったので、騎兵運用の基本は歩兵陣の両翼掩護であった。

第二に、歩兵は迅速に配備変更ができないので、歩兵の密度を変更して主攻と助攻を形成することを考えた。
このためにレギオンは細胞型の編制とした。細胞の単位は重装甲歩兵120~160名の中隊(マニプル)で、正面20名の6~8列の横隊を造った。中隊は2個小隊(センチュリー)である。重装甲歩兵2個中隊、軽装甲歩兵1個中隊、兵力が半分の年長歩兵1個中隊の計4個中隊及び騎兵30騎で1個大隊、10個大隊で標準型の1個レギオンとした。兵力は騎兵300を含む約4500~6000である。
陣形は正面360メートルに第一線として10個中隊を配置し、各中隊の間隔を約10メートル余、各兵士の占める正面は約1メートルとした。中隊陣の兵士の間隔は変更しない。従って主攻や助攻は中隊間隔を詰めたり、広げたりして形成した。
第二線は第一線の後方約75メートルに10個中隊が第一線の間隙を埋めて千鳥形になるように横隊に並んだ。戦闘間に敵が中隊の間隙に入り込む恐れがあるときは、中隊は正面40名で3~4列横隊となって間隙を縮小した。そしてさらに約75メートル後方に第三線が10個中隊で横隊に並んだ。
前衛は各大隊から差し出す軽歩兵中隊が10個中隊で横一線に展開した。騎兵は両翼に集中し、それぞれ150騎を配置した。歩兵と騎兵の比率は14対1である。

レギオンは今日の師団に相当した。一つのローマの同盟軍も同じような考え方で編制された。ただし騎兵は600騎であった。
「ローマン・レギオン」は今日の軍団に相当し、ローマ軍の1個レギオンと同盟軍の1個レギオンで編成された。従って騎兵兵力は900騎となった。
「コンシュラー・アーミー」は今日の軍に相当し、2個ローマン・レギオンで編成されて、二人の執政官(コンスル)が毎日、交代で指揮した。その戦闘正面巾は最大2.4キロに達した。
戦時または大きい危機が訪れたときには「野戦軍」として2個コンシュラー・アーミーで編成された。指揮官は臨時に任命された独裁官(ディクテイター)である。
また、別に独立的作戦のために小型の野戦軍が編成された場合には、元執政官(プロコンスル)または行政官(プラエター)が元老院から任命されて指揮を執った。
執政官は高位の官僚から選定され、政治権力と軍事権力を一手にし、作戦に関して祖国から干渉を受けなかったが、軍事に関して素人の凡将が軍を指揮することが多かった。これはハンニバルから手痛い教訓を受けることになった。
執政官や元執政官は上級参謀か、財務参謀(クエスター)の補佐を受けた。彼らは作戦計画業務と管理業務を担当した。
レギオンの上級将校は6名の護民官(トリビューン)であって2名づつ各列を指揮した。護民官の下に60名の百人隊長(センチュリオン)がおり、2名づつで一つの中隊(マニプル)を指揮した。
このような碁盤の目を斜めにしたような中隊配置は、平地と山地とにかかわらず陣形を維持しつつ戦闘機動することができた。
重装甲歩兵は鎧をまとい、約2メートルの投槍2本と長さ約60センチの広刃の剣(グラディウス)を装備した。投槍は格闘戦直前に敵に投げつけた。槍先の首は折れやすくしてあり、敵が投げ返すことはできないようになっていた。敵の鎧に突き刺さって残った槍先は敵の行動を阻害した。
ローマ歩兵はこのような武器のほかに2本の棒を持ち歩いた。野営するときに矢来を組み、濠を掘って土を盛り上げて矢来を強化した。
このローマの戦闘ドクトリンに基づく歩兵陣形はフィルフス王のマケドニア-エピロート歩兵戦闘陣形(ファランクス)に対して柔軟かつ適切に対抗できた。

ハンニバルの戦闘ドクトリン

 紀元前323年、アレキサンダー大王はペルシャとインドの征服を追えたあと、地中海周辺の征服を計画中にバビロンで熱病に罹って病死した。多分、マラリアであったといわれている。大王の死後、今日のレバノン、パレスチナ、エジプトを大王の副官兼主任参謀であったプトレオマイオスが王朝を建国して支配した。

当然、レバノンのフェニキュアとその植民地カルタゴの軍事システムはマケドニアの戦闘ドクトリンの影響を受けた。すなわち前回説明したアレキサンダー大王の戦闘ドクトリンである。
騎兵が「打撃の骨幹」であった。そして全兵力の9分の一の眞予備を拘置した。騎兵と歩兵の兵力比は1対7である。これは騎兵密度でローマ軍の2倍である。
ハンニバルは歩兵の配置を彼流に変更した。両翼に重装甲歩兵を重厚に配置し、中央に軽歩兵を薄く配置して前後に運動しやすくした。そして中央陣を傘型に前方に突き出す陣形にした。そしてその前方には「戦象部隊」を配置した。
両翼の歩兵陣の外側には騎兵部隊を重厚に配置し、左右いずれの翼からも打撃機動を行う態勢を採った。

最も特色のある配置は、9分の1の眞予備を通常、主力が左右いずれかの側後方に離して配置した。まったくの「隠し予備」と呼んでよい。この「隠し予備」はハンニバル戦闘ドクトリンの真髄といってよいだろう。

<中編に続く>

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