松村劭
名将たちの教育論 13
さらにアメリカとイギリスの教育制度には、「大人のための教育機関」がある。それらは数多くの戦略・政策研究所である。今日、「居眠り、立ち歩き、私語、無断欠席といえば学級崩壊の姿かと思えば、それは日本の国会の姿である」といわれている。その国会議員が深く研究した政策を立案するためにブレーン・グループを雇用すれば、年間の費用は1.5億円が必要と言われている。国会議員727名の合計では約1000億円を必要とする経費となる。
名将たちの教育論 12
学校教育のシステムをどのように構築するかは、国家が教育の目的を何と考えるかにかかっている。アメリカの基本的人権の考え方は人間の備えるべき道徳については清教徒であることが前提となっている。なぜなら、清教徒の道徳論を除いた"基本的人権"を"基本的動物権"と記述しても適用できる。例えば動物園の野獣が「殺すな。檻に閉じ込めるな。美食をよこせ。俺たちのことは俺たちで決める。人間よ従え!」と主張することができる権利となって基本的人権と同じ主張になってしまう。
名将たちの教育論 11
戦前の日本では哲学者フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」が広く識者に愛読された。近代的な国民とは何か、国民文化とは何かについて哲学いることに多くの示唆を与えていたからである。今日でも西欧ではジョン・ロックおよびアダム・スミスならびにマルクス、レーニンを越えているとして愛読されている。――もっともアメリカ人は好まない――
名将たちの教育論 10
第一次世界大戦の末期にイキリス軍は大規模な戦車軍団による突破作戦を計画していた。フラー少将は、この攻勢の総指揮官に指名され、攻勢の準備を着々と整えていた。それだけにこの名言は"生々しい現実味"がある。学校教育で良い市民になれと教育しても、組織の心を理解できる人になれと今日の日本の学校教育で行なわれているだろうか?
名将たちの教育論 9
有事になれば軍隊は法理外の"力学の世界"で行動する。戦術はこの世界における行動術である。 この世界の行動は基本的に自由だから、すべて自分で判断しなければならない。その判断の基準は自分の"信条"と"戦いの原則"および"騎士道"である。
名将たちの教育論 8
義務の遂行は容易ではない。あらゆる抵抗に耐えながら目標に向かって一寸でも前進しなければならない。辛抱が将兵に要求される。辛抱の原則が教えている通り、辛抱は決意の本質から直接に導かれるものである。
名将たちの教育論 7
「健全な精神は健全な肉体に宿る。虚弱な身体は我侭によって造られる。虚弱な体躯の人が新鮮で剛毅な心をいつまでも持ちつづけることは難しい。それ故、健康で強健な体躯は貴重である」
名将たちの教育論 6
「罪を犯すような人間になるな!」と強調しても教育したことにはならない。犯罪に立ち向かうには"勇気"が必要である。"怒り"ではない。「犯罪に立ち向かう勇気と行動を持て!」と教育しなければならない。怒りは自分の臆病と無能の産物である。"犯罪に立ち向かう"精神と行動を教えなければ教育とはいえない。
名将たちの教育論 5
アナポリス海軍士官学校における教育の最大の特徴は「艦長としての人格の養成」と「潮っ気の付与」である。 人間は小さな体躯に"希望""野望""欲望"という大志を一杯に詰め込んでいる。青少年が新しく学校の門をくぐるときに胸一杯に膨らませているものはこの夢の実現に一歩踏み出す喜びである。 英語の大志(Ambition)の意味は"票を求めて歩き回る"というラテン語から名誉を得ようとする功名心"名声を得ようとすること"とも説明されている。まさに大志なのだ。
名将たちの教育論 4
有史がある紀元前600年ごろのギリシャの戦闘では、既に戦闘陣形を組んでチームプレーによって戦うように戦闘マニュアルが存在していた。単に武装人(man at arm)が群がって戦う時代から進歩していたのである。
名将たちの教育論 3
世界の軍人には、それぞれ祖国の風格を備えている。イギリス人は"海賊的"であり、フランス人は"芸術的"であり、ドイツ人は"規律的"である。ロシア人が通れば重い足音が聞こえる。
名将たちの教育論 2
人々の生活の中に「力」は先験的に存在するし、また、無形的、有形的「力」なくして人々は生きて行けない。だから「力の使い方」の教育がなされて当然である。それなのに日本では、その教育がないのだ。
名将たちの教育論 1
禅の名僧、鈴木大拙師や哲学者マイケル・ポランニーが教える通り、人間は言葉や文字で自分の考えや感情、意志を伝達できる形式知の領域(writable world)と伝達できない暗黙知の領域(unwritable world)の両方の世界で生きている。前者は"有理の世界"であり、後者は"無理の世界"と言ってよい。 "無理が通れば、道理が引っ込む"というが、道理が常に正しいとはいえない。空理空論も道理という衣服を着て人間生活を破壊するし、理想論は、しばしば現実とかけ離れて二枚舌を作る。さらに理屈の言葉(ペン)は剣よりも強く残虐である。
ナポレオンの戦闘教義(後編)
恒久的な大部隊の戦術・管理組織としての歩兵師団は一八世紀のフランスで姿を現した。一七五九年、デューク・ド・ブローリー(Duc de Broglie)が歩兵と砲兵を組み合わせて恒久的な師団編制をフランス軍に持ち込んだ。
ナポレオンの戦闘教義(中編)
軽歩兵は一八世紀に欧州に甦った。軽歩兵という概念は真新しいものではなく、古代ギリシャ時代から歴史の終始を通じて存在していたが、主役の座に帰り咲いたのは久しぶりであった。ただ軽歩兵の役割は不正規軍としての地位に甘んじていたのが大部分の歴史であった。すなわち、弓兵、投石兵、投槍兵などで、戦闘の幕を切って落とす仕事を果たしたあとは両側に移動し、主力の決戦には参加しなかった。
ナポレオンの戦闘教義(前編)
イタリア半島の西側に位置するコルシカ(Corsica)島は、ナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte)の生地として一躍、世界史に有名になった。その面積は、わずか約三,三〇〇平方マイルでわが国の四国の約半分の大きさである。ナポレオンが誕生したころの人口は約一三〇,〇〇〇であった。
チンギス・ハーンの戦闘教義(第四回)
初期の会戦においてジンギス・カーンはしばしば中国の強力な城壁に悩まされた。そこで攻城の研究および戦闘体験と中国が運用していた攻城技術を導入し、数年にしてモンゴル軍指揮官たちは、城を守る側がほとんど対応できないような攻城システムと戦術を体得した。 攻城システムの基本要素は巨大であるが機動性のある攻城段列であって、焼夷弾や煙弾を含む飛翔体発射機と組み立て式櫓梯子、振り子式槌などであって分解して運ぶ馬曳荷車と乗馬工兵(技術者)から構成されていた。
チンギス・ハーンの戦闘教義(第三回)
ジンギス・カーンの機動力は相対的にみれば、当時の世界の陸軍がまったく対応できない卓越したものであった。この相対的落差の大きさは有史いらい、今日まで未だに破られていない記録である。ここで言う機動力とは速度だけではなく、地形踏破力と無停止の機動距離、分散・集中の速度、方向維持力を含んでいる。
チンギス・ハーンの戦闘教義(第二回)
個々のモンゴル騎兵は、当時の世界として最も厳しい訓練を受けた最良の戦士であった。個々の兵士はスパルタの熟練戦士に優る忍耐力、堅忍不抜の敢闘精神、高度な武器操作技術の訓練を受けた。
チンギス・ハーンの戦闘教義(第一回)
"Horde"と言う言葉は本来、トルコ語で「野営地」という意味であるが、同時にモンゴル民族または一個野戦軍の意味にも使われている。しかし、また「大群」の意味にも使われている。これはモンゴル軍と戦った西方のトルコ族や欧州の人々が小さなモンゴル軍に圧倒されたと信じたくないから、この「大群」の意味に使用したのであった。
ハンニバルの戦闘教義(後編)
ハンニバル軍は寄せ集め軍であったから攻城技術兵を持てなかった。それゆえ、ハンニバルはローマ城壁を攻撃できないので、ローマ軍を野戦に引き出して撃滅しようと考えた。そこでローマの西側を素通りして南部イタリーに基盤を構成することにした。
ハンニバルの戦闘教義(中編)
部隊の編制はマケドニアのファランクスとほとんど変化はない。戦闘ドクトリンはテーベのエパミノンダスの戦闘ドクトリンを左右に連接したような考え方である。その運用を戦史で眺めてみよう。
ハンニバルの戦闘教義(前編)
「戦略の父」と呼ばれるカルタゴの将軍、ハンニバル・バルカ(紀元前247~183)は、父ハミルカル・バルカが祖国カルタゴの闘志喪失に失望して中部スペインに逃れたときに幼い時代を父に連れられて過ごした。10才であった。
アレキサンダー大王の戦闘教義(後編)
ギリシャの地形は錯雑していて一つの戦場が大きくなかった。フィリップ二世は一つの戦闘陣形の兵力を戦場の平均的広さに適応できるように約八〇〇〇名とした。基本戦闘陣形を説明しよう。前衛は軽歩兵が四列横隊一〇二四名で中央に展開し、両翼にそれぞれ一隊六四騎の騎兵四隊が援護した。全正面幅約四五〇メートルである。本隊は中央に歩兵陣、両翼に騎兵四個大隊計二五六騎が展開した。中央の歩兵陣一六列の横隊四〇九六名で左半分が重装甲歩兵、右半分が軽装甲歩兵であった。本隊の後方には、八列横隊の傭兵の歩兵二〇四八名が展開して予備となった。左翼の全騎兵はテッサリー騎兵四個大隊五一二名で右翼の全騎兵はマゲドニア貴族で編成したカンパニオン騎兵四個騎兵大隊五一二名である。この戦闘陣形の戦い方はヘッドを右側にしたゴルフクラブに似ている。カンパニオン騎兵がヘッドで右翼の軽歩兵がシャフト、左翼重歩兵がグリップ、左翼のテッサリー騎兵がボディに相当した。右から強烈に相手を打撃するのである。後方の予備は後方からの包囲に備えていた。
アレキサンダー大王の戦闘教義(前編)
『得意技なくして戦術なし。戦術できずして戦略は成り立たない』というのは筆者がかねてから主張しているもので、あらゆるスポーツを楽しむ人々からは容易に理解すると賛同をいただいているところである。しかしながら、兵法書の名著と言われる「孫子」を初めとして、ローマ帝国のF.V.レナタス「軍事について」、クラウゼヴィッツの「戦争論」、ジョミニの「戦略提要」などは将たるの資質、統帥について記述していても"得意技"について触れていない。得意技のあり方について触れているのはフラー英少将の「機甲戦」と古代インドのカウチリアの「アルタサストラ」ぐらいだろうか?なぜ軍事上の名著が得意技(戦闘ドクトリン)について記述しないかという理由は、得意技は兵器の進歩、戦場の特性、将兵の特性、兵器生産力などによって変化するからである。



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