対談22の成功記念企画です!
峯山政宏氏は一緒に日本国や子どもの未来のために行動してくれる友人を求めています。
彼は学歴も主義も、宗教も問いません。友たる資格はただ1つです。正義を行うだけ!
峯山政宏氏への直接メール(クリック) 彼の主張です。
貧しき中でプライド無くした人、感銘しましたら上記にメールを送って下さい。
無償奉仕で対談22を後援してくれた橘所長入院の為に峯山氏は意気消沈しています。貴方のメールが未来を変えるかもしれません。アメリカからの報告では彼の政治団体は上記理由で瓦解寸前だそうです。逆にオバマ候補は残り1週間で当選しそうだという事です。先週の対談22の成功が本当だったのか疑問が残ると言う内容でした。主戦場はLagrangian point 4(アメリカ)ですからL4で勝てば時間差をおいて日本の政界に対しても間接アプローチにより支援が可能となります。その場合、唯一の庶民政党(理数系)である上記団体が稼働していなければ日本の貧困層は今以上に苦しい立場となるでしょう。日本人の富裕層選抜エリートは海を渡り主戦場で知的分野において支援活動を行っているからです。彼らは伝統的階級ですから資産家が多く学歴も高いのです。彼らの全員ではないですが多くは非伝統的階級出身の指導者は重要な場面で寝返る人間が多い。酷い場合は対日工作特務ファイル(袁 翔鳴著)にあるように裏切り者が多い賤民は信頼できないという硬直した考え方を持つ人間がいます。結末は11月上旬のアメリカ大統領選挙後になるでしょう。
補給戦ー後半
自動車時代とヒットラーの時代
時代はヒットラーの時代に入り、兵站の主流も鉄道から自動車へと移行していく。鉄道というのは、爆破が非常に簡単であるという欠点がある。第一次世界大戦のベルギー国内の場合、鉄道網は無数のトンネル、鉄橋、立体交差点を通過しなければいけないので、それらのどれかが爆破されてしまえば、修復に莫大な時間がかかってしまうことになった。1939年9月1日に開始されるポーランド戦においても、敵味方両軍による鉄道破壊が余りにも激しかったので、鉄道によって物資を運ぶことが全くできなかったという。
しかし、ここで一つの疑問が生じる。兵站の主流が鉄道から自動車に変更されたと言っても、ドイツ軍の主力部隊は電撃戦を採用した戦車部隊である。相手陣地を突破した後、高速のスピードで敵の主力に対して包囲陣形を敷き、殲滅戦を実施するのだから、兵站部隊も相当訓練されていなければ、自動車部隊といえども追いつく事はできなかったであろう。ポーランド戦における詳細については以下を参考にして頂きたい。

ポーランド侵攻作戦における実際の経過を確認してみよう。ポーランド侵攻は1939年9月1日に開始される。まず、第4軍クルーゲの前進によって、ポーランド回廊は遮断され、ヴィッスラ河下流に到達。一方、第3軍キュヒラーが、東プロシアからナレフ側に向かって進行した。さらに、第10軍ライヘナウの機甲部隊はヴァールタ河にまで突破を行い、第14軍のリスト軍はクラコフに向かう分進合撃を実施していた。9月4日までに、第10軍ライヘナウの機甲部隊は国境から内側へ50マイル入ったピリーツァ河を渡河し、その2日後には彼の左翼はトマーショフを超えてそのかなり前方まで前進し、その右翼はケェルツェへ進入していた。ドイツ軍の作戦計画が順調に実施されているので、ドイツ陸軍総司令官ブラウヒッチは、首都ワルシャワがあるビスワ河まで、この前進行動を東方へと継続させることを指示した。しかし、南方軍ルントシュテット上級大将とその参謀長マンシュタインは、ポーランド軍主力が依然として、ビスワ河の西方にあり、その場所で補足可能である事を知り、計画の変更を主導した。第10軍ライヘナウの機甲部隊の左翼はロッズ付近にあったポーランド軍大兵力の集中地の背後を目指し、北方へ旋回し、ロッズ及びワルシャワ間にあるブズーラ河沿いに狙塞陣地を確立するように指示。この北方への旋回行動の結果、このポーランド軍の大兵力は退路を遮断されて、ビスワ河を超えて撤退することができなくなった。この第10軍の旋回行動によって、名将ハンニバルのカンネーの戦いにおける「包囲陣形」が完成したのである。
ドイツ軍はこの時点で、ビスワ河を目指して、突進してくるポーランド軍を迎え撃ちさえすれば良かったのである。ポーランド軍は首都ワルシャワからは遮断されており、補給物資は運搬されず、その背後と両翼にはプラスコヴィッツの第8軍とクルーゲの第4軍によって逐次圧迫を受けつつあった。ポーランド軍は敵をも感嘆させたほど勇敢に戦って、ワルシャワ守備軍と合流しようとしたが、ほとんが果たせず、ドイツ軍の包囲陣形の餌食となった。9月10日、ポーランド陸軍総司令官スミグリー・リッツは、長期抵抗のため比較的狭い正面の防御戦を編成しようと望み、残余の兵力に対して、ポーランドの東南部へ向かい総退却を実施するように命令した。しかし、この退却するポーランド軍に対して、ドイツ軍はさらなる大包囲陣形を敷くことによって、ポーランド軍を殲滅することを計画する。大包囲陣形の左翼を担ったのはクルーゲの第4軍の先鋒をつとめたグーデリアンの機甲師団である。ポーランドの侵入にあたっては、ポーランド西北部にある回廊地帯を横断する突進を行って、孤立していた東プロシアに到達した。その後、9月9日に、グーデリアンはナーレフ河の線を越えて、さらに南に突進し、14日にはブーク河に沿うブレスト=リトフスクに到達した。そらに、40マイル先にあるグロータヴァを目指して進撃し、南方からせり上がって来るもう1つの鋏である第14軍第22装甲軍団クライストと合流して、大包囲陣形を完成させた。ロシア軍がポーランドの東部国境を越えた9月17日までには、ポーランド陸軍はドイツ機甲師団による二重の包囲陣形により崩壊させられていたのである。
ポーランド戦において、自動車による兵站作戦はほとんど機能しなかったという。確かに、自動車が鉄道よりも柔軟に、前線部隊に物資を運搬することができるのは間違いなかったが、問題は輸送能力である。一本の複線の鉄道輸送能力に匹敵するには、1600台ものトラックが必要だったからだ。当時のドイツの経済力では、民需に加えて、軍隊の需要をまかなうほどに、自動車産業が発展していなかったのである。しかも構造的な問題がある。ドイツにはトラックを動かすための石油がないのである。兵站を担うトラックの動力源が自分の国で産出できないのだから、その時点でかなり問題があることは推測できる。
1)戦争に必要なトラックをすべて製造することができない。
2)トラックを動かす石油をドイツで産出することができない。
この2つの点から、ドイツの兵站システムはかなり不十分であったのだ。実際、トラックが足りないので、補給物資の大部分は1200台の馬車によって運ばれていた。馬車で機械化部隊に追いつこうというのは少し無理があったに違いない。それでも、ドイツ軍がポーランド軍を3週間以内に崩壊させることができたのは、早期にポーランド戦が終了したために、兵站問題がおこらなかったためである。ポーランド戦が、1ヶ月、2ヶ月と長期戦になっていれば、歴史はまた違ったものになっていたに違いない。
次に、独ソ戦について確認してみよう。独ソ戦前後の戦史についての詳細は以前コラムにまとめたので、参考にして頂きたい。
それでは、続いて、ドイツから見た第二次世界大戦について、駆け足で確認して見よう。ドイツは独ソ不可侵条約を締結した8月23日の1週間後に、最初の目的地であるポーランドに対する侵攻を開始した。1939年9月1日午前4時45分。100万の軍隊と2000機の飛行機がポーランド回廊とダンチヒに殺到した。これを見て、イギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告し、ここに第二次世界大戦が勃発することになった。1940年春になると、ドイツ軍は北欧、西欧への侵攻を開始する。デンマーク、ノルウェーに続いて、オランダ、ベルギー、そして、1940年6月にはフランスが降伏する。ドイツ軍は、戦車隊を中心とした機甲部隊を戦闘にして、猛烈なスピードで進撃したので、フランス軍はこれに対して、全く対応が取れずに敗北することになった。このドイツ軍の戦い方は電撃戦と呼ばれるが、これについては後ほど再度取り上げる。1940年夏の段階では、ドイツは北ヨーロッパ、西ヨーロッパ全域の支配を達成し、残るはイギリスのみとなった。同年、7月頃から、ヒトラーはドイツ空軍による徹底した爆撃をイギリスに行うが、イギリスの戦闘機部隊も奮戦し、ドイツ空軍に大打撃を与えた。その結果、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期にし、1940年12月に極秘命令を出して、西ヨーロッパに展開していた軍隊の多くを東方に移動させる。作戦開始時期は1941年3月だったが、バルカン半島の制圧に3ヶ月を要したので、独ソ戦の開始は1941年6月22日に開始されることになった(バルバロッサ作戦)。レニングラード、モスクワ、スターリングラードを目指し、ドイツ軍は当初、電撃戦により破竹の勢いで進撃した。開始の1ヶ月で実にソ連軍の30%の軍事力がドイツによって破壊されることになった。しかし、不幸だったのは、ナポレオンのロシア遠征と同様に、冬将軍がソ連の味方をしたことだった。同年10月から降り始めた雪によって、酷寒に晒されたことと、予想外の独ソ戦の勝利により戦線が伸び切ったことが災いして、ドイツ軍の前線における補給が困難な状態に陥っていた。そして、1942年6月にスターリングラードを巡る攻防戦(スターリングラード攻防戦)が開始され、双方合わせ150万人を超える戦死、戦傷者を出す壮絶な地上戦を行った結果、ソビエト軍に対し大敗北を喫したことが原因となり、ソビエトとの戦争において、モスクワまで迫っていたドイツ軍は徐々に後退を余儀なくされることになった。また、この頃、ロンメル将軍率いるドイツ・イタリア連合軍が北アフリカで、連戦連勝していたものの、同年7月に行われたエル・アラメインの戦いでイギリス軍に対し、大敗北を喫し、ドイツ軍は、この時点で攻勢終末点を越えていたと言えるだろう。
1943年に入ると、アメリカ、イギリス連合軍はイタリアに上陸する。ムッソーリには国王と国民の支持を失って失脚し、ムッソリーニの後をうけたバドリオ内閣は連合国に対して、すぐさま無条件降伏をする。1944年4月には、ソビエト軍はクリミアやウクライナ地方のドイツ軍を撃退し、ほぼ完全に開戦時の領土を奪回することに成功し、更にバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。一方、1944年6月、西からドイツ軍を粉砕するために、イギリス軍とアメリカ軍を中心に6,000を超える艦艇と延べ12,000機の航空機、17万5000人の将兵を動員した大陸反攻作戦(ノルマンディー作戦)が開始され、多数の犠牲者を出す事にはなったが、1940年6月以来の西部戦線が再び構築されることになった。東西から挟撃されることで、その支配領土を急激に減少させていたドイツ軍は、度重なる敗北で反抗の力をほとんど失い、1945年4月30日にヒトラーはベルリンの地下壕で自殺し、5月8日にドイツは無条件降伏した。
1941年6月22日に、バルバロッサ作戦(独ソ戦における最初の軍事作戦)が開始された。ドイツ軍は合計300万人の兵員を動員し、史上最大の陸上作戦を展開した。ソビエト連邦という広大な地域で、膨大な兵員に物資の補給を行う事は、ドイツ軍の最大の課題であったが、ポーランド、デンマーク、ノルウェーに続いて、オランダ、ベルギー、フランスを戦車部隊による電撃戦によって、短期間に破っていたドイツ軍は、物資の不足という問題が生じる前に短期決戦でソ連軍を降伏させることを目的としていた。

バルバロッサ作戦
しかし、電撃戦を得意とするドイツ軍でも、広大なソ連の領土内では、物資の補給問題に悩ませられることになり、ドイツ軍が目指した短期決戦での勝利は絵に描いた餅となった。ナポレオン軍のロシア遠征と全く同じ轍をナチス・ドイツ軍も歩むことになる。例えば、ドイツ軍の占領地域から、ソ連のスモレンスクまでの距離は300マイルを越える。300マイルを進撃した時点で、ドイツ軍の自動車補給部隊の能力では、1日に、1師団あたり、70トンの物資しか運ぶことができなかったという。実際、ドイツ軍の全師団は144個存在して、1日に、1師団あたり必要な物資は300トンであったことから、スモレンスクの時点で自動車部隊による物資の補給はすでに困難を極めていたのである。ドイツ軍によるモスクワへの攻略戦「タイフーン作戦(バルバロッサの第二作戦)」では実際に使用した車両の数より最低、10倍の量が必要であったと推測されている。どのような貧弱な物資補給でドイツ軍が戦っていたのかがよく分かる。物資の不足の中でも、特に深刻だったのは石油で、ドイツ軍は1942年夏から1942年初冬にかけてカスピ左岸のバクー油田を占領することで、慢性的な石油不足を解消しようとするが、カフカス山脈の中央部まで進出した時点で、これも補給難に陥り撤退している。(ブラウ作戦)
自動車部隊があまり役に立たないので、ドイツ軍は物資の輸送の主力を鉄道に振り向けたが、兵站問題を解消するには至らなかった。なぜなら、ドイツの鉄道車両を走らせようとしても、ソ連のレールはドイツのものと、軌間が異なっていたので、修復するには時間と手間がかかり、枕木の数も3分の1少ないために、それを補ってやらなければ大型機関車を走らせることはできなかったのである。また、ソ連の機関車は撤退時にことごとく破壊されていたことも鉄道による物資の補給をさらに困難にしたと言えよう。慢性的な物資の不足に喘いでいたドイツ軍は、1942年6月にスターリングラードを巡る攻防戦(スターリングラード攻防戦)において、双方合わせ150万人を超える戦死者、戦傷者を出す壮絶な地上戦を行った結果、ソビエト軍に対し大敗北を喫したことが原因となり、独ソ戦敗北は必至となった。
上記の史実を振り返ってみるならば、電撃戦の弱点は物資の補給が追いつかない事及び物資の補給が軽視されることにあるのではないだろうか?ナチス・ドイツ軍も独ソ戦が開始されるまでは、電撃戦によって短期間に勝利していたので、兵站が問題になることはなかったが、広大なソ連領では電撃戦の弱点が露呈することになったと言えるのではないだろうか?
ロンメルは名将だったか
ロンメルは第二次世界大戦で、最も有名なドイツ軍人の一人である。特に1941年2月にイタリア軍支援のために砂漠の北アフリカに派遣されたロンメル将軍は巧みな戦車部隊で英軍を圧倒し、英首相チャーチルからも「ナポレオン以来の戦術家」とまで評され、彼の神出鬼没な戦い方は「砂漠の狐」という異名を持って呼ばれるようになった。しかし、天才ロンメルは、なぜ北アフリカで敗北することになったのか?物資の補給という観点からこの問題を確認してみよう。

ロンメル将軍の北アフリカ戦線における北アフリカ到着から撤退までの軌跡は以下。
1941 2/3~
2/3 ロンメル、ドイツ・アフリカ軍団司令官に就任
2/12 ロンメル少将トリポリに到着
3/31 ロンメルはキレナイカ(ベンガジ東方)へ進出しトゥブルクを包囲しエジプト国境にせまる。
6/15 チャーチルは地中海経由で戦車300両を英軍に補給し「バトルアクス作戦」を発動させる。2日後作戦は失敗に終わる。
11/18 英軍オーキンレック司令官、「クルーセイダー作戦」を開始。当初ロンメルは優位に戦局を進めたが結局一時的にキレナイカより後退する。
1942 1~
1/5 本国より補給船団が到着
20 ロンメル、英軍に大攻勢をかける。
29 ベンガジを再占領。
5/26 トゥブルク攻略作戦開始
5/31 緊要拠点、大釜陣地占領
6/20 北アフリカ戦略拠点トゥブルク要塞を陥落させる。
6/22 ロンメル、元帥に叙される。
7/1 ロンメル元帥、エル・アラメインへ攻勢に出るも失敗
10/23 英軍の大反抗作戦開始 「ライトフット作戦」
11/ 1 英軍「スーパーチャージ作戦」を発動 ロンメル軍後退する。
8 米軍アイゼンハワーが北アフリカ、アルジェリア方面に上陸「トーチ作戦」1943 2~
2/~ ドイツ・アフリカ軍集団チェニジア方面に撤退する。
3/9 ロンメル元帥、アフリカを去る。
北アフリカ戦線当時のイギリス軍は、アレキサンドリア周辺の沿岸部のみを支配しており、残りの拠点としては、マルタ島とジブラルタル海峡を保有するにとどまっていた。しかし、戦略上の観点からはこの2つの拠点を抑えていたことはイギリス軍にとって非常に大きな意味があった。まず第一に、英軍はジブラルタル海峡を保有していたので、地中海の細い入り口を通って、ドイツの艦艇が増援のために地中海の入る事は極めて難しかった。さらに、マルタ島を保有していたので、潜水艦と航空機を出撃して、枢軸国(ドイツとイタリア軍)の海上補給路を脅かし、ロンメル軍の補給を困難なものにしていた。これに対して、ドイツ軍もクレタ島やシシリー島から、「シュトゥーカ」急降下爆撃機を出撃させて、英艦艇を次々と攻撃することで応戦している。マルタ島は全島穴だらけになるほど激しい空襲を受けながらも、何とか持ちこたえ、ロンメルを敗退させる最も主要な役割の一つを果たしたと言われている。ロンメル自身も兵站の重要性を認識しており、次のような言葉を残している。
軍隊が戦闘の緊張に耐えるためには、まず第一に不可欠の条件として武器、石油、弾薬を十分に貯えることである。実際のところ打ち合いが始まる前に、戦闘は兵站将校によって行われ決定されるのである。いかなる勇敢な兵士といえども銃なしでは何事もなしえず、銃は十分な弾薬なしには何事もできない。だが、機動戦においては、車両とそれを動かす石油が十分になければ、銃も弾薬も大して役に立たない。保守修繕も、敵のそれに対して量的にも質的にも同等でなければならない。
兵站の補給問題は北アフリカ戦においても最大の課題であったことは間違いないが、補給戦の著者、マーチン・ファン・クレファルトはロンメル軍の兵站の困難は海上での損害よりも、むしろアフリカ内陸での遠距離-かつ脆弱な補給線に原因があったと指摘している。つまり、トリポリからエルアラメインまでに、補給線がのびきってしまい、それに対して確実な兵站システムを持たなかったことがロンメル軍の敗因であったというのだ。
実際のところ、ロンメル軍の参戦初期において、ドイツ軍もクレタ島やシシリー島から、「シュトゥーカ」急降下爆撃機で、マルタ島を出撃する英艦艇を何度も撃沈させていたので、イタリアから、トリポリやベンガシに対する補給ラインはそれほど攻撃されることはなかった。マーチン・ファン・クレファルトが指摘するように、ロンメル軍が物資補給に悩んだ本当の原因は沙漠の北アフリカで物資の補給がうまくできなかったためである。たとえば、エルアラメインの戦闘に際して、アフリカ装甲軍の限られた貯蔵物資の3分の1もが、エルアラメインではなく、背後のベンガシになお滞留していたという。
なぜこのようなことが起こったのだろうか。まず第一にドイツ軍の一部しか自動車化されていなかったので、砂漠地域で物資を運搬するトラックの数が圧倒的に不足していたという事実がある。せっかくイタリアから地中海を渡って、北アフリカのトリポリに物資を運搬してもそこから前線地域にまで、それを運ぶことが至難の業だったのである。2つ目として、砂漠地域では兵器等の消耗速度が通常の戦争よりも速くなってしまうということも挙げられる。ドイツ製の戦車のエンジンの寿命は、暑熱や悪路の影響のために、1400-1600マイルから、実に300-900マイルまで短くなっていた。ロンメル軍が前線で勝ち進めるほど、物資の補給は困難になっていたのである。
しかし、状況はさらにドイツ・ロンメル軍に対して不利になっていく。それまでアフリカ行きの護送船団をシシリー島の基地から守っていたドイツ第10航空軍が1941年6月始めに大部分ギリシャに移動させられた。それ以降、地中海の輸送船団の被害が急激に増え始めた。7月には、リビアに送られた全補給物資の19%が沈められた。8月には9%、9月には25%、10月には再び23%の被害を受けた。また、ベンガシはイギリス空軍の行動半径に入っているので、同年9月に大爆撃され、トゥブルクは大型船が乗り付けることができないので、ロンメル軍が前線で戦闘を開始しても、補給線は常にトリポリから運ばなければいけなかったので、兵站が大問題となった。トリポリから最前線、エルアラメインまでの距離は実に1,000マイルを超え、輸送途中で車両の35%が故障していたのだから、補給業務が非常に困難であった事は想像される。そして、物資が十分に前線部隊にまで供給できなかったので、1942年11月にロンメル軍は撤退を開始した。兵站というのがいかに難しいかということがこの戦史から伺い知る事ができるだろう。
以上のことから、ロンメル軍が北アフリカ戦線において、補給困難に陥った理由には次の3つが考えられる。
1) 北アフリカの港の港湾能力が低い事。
2) トリポリから前線までの補給ラインが長い事。
3) マルタ島を攻略できなかったので、イギリス空軍によって輸送船が沈められたこと。
最後に
戦争というのは、激しい弾薬の応酬をイメージしてしまうが、物資の補給が戦争の9割を占めると言われている。この非常に地味で勝つ重要な数学問題に対して、常に軍隊は悩まされてきたと言えるだろう。補給戦の著者、マーチン・ファン・クレファルトは最後に、将軍ウェーベルの次の言葉を引用している。物資の補給がいかに難しいのかということが端的にわかる名文ではないだろうか戦争を見れば見るほど、いかに戦争がすべて管理と輸送に依存しているかが分かる。諸君が軍隊をどこへ、いつ移動させたいと思っているかを知るには、熟練も想像力もほとんど必要としない。だが、諸君がどこに軍隊を位置させることができるか、また諸君がそこに軍隊を維持させることができるかどうか知るには、たくさんの知識と刻苦勉励とが必要である。補給と移動の要素について本当に知ることが、統率者のすべての計画の根底とならなければならない。そうなって初めて統率者は、これらの要素について危険を冒す方法と時期とを知ることができるし、戦闘は危険を冒すことによって初めて勝利が得られる。



コメントする