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目次
序章
リデルハートの間接アプローチ
艦隊決戦主義と太平洋シーレーンの破壊
序章
日本はなぜ、太平洋戦争(大東亜戦争における日米戦争の呼び名)に敗北したのだろうか? おそらくほとんどの日本人はこの問いに答えることはできない。なぜなら、戦後の学校教育の中で、日本軍が太平洋戦争に敗北した理由について、「軍部が馬鹿だったから。」
「軍部が、政府の命令を無視して暴走したから。」
程度のことしか学ぶことがなかったのだから、日本人の太平洋戦争に対する無知についても当然のことと言える。では、なぜ日本人はこれほど太平洋戦争について、何も教育されていないのだろうか? 少し考えればこれだけ、不思議なことはない。日本人だけで、およそ230万人の軍人と、80万人の民間人が犠牲になった戦争について何も知らないなんて、かなり異常であるとは言えないだろうか?
例えば、1993年10月28日、翌年(1994年)のアメリカワールドカップの出場をかけて、カタールのドーハで、日本代表とイラク代表がアジア地区の最終予選を行ったが(サッカーのお話)、終了間際のロスタイムで、イラク代表の同点ゴールが入り、日本のサッカー代表が予選敗退することになった一連の出来事は「ドーハの悲劇」と呼ばれるが、この時、日本がワールドカップに出場できなかった理由が
「選手が馬鹿だったから。」
「選手の能力がなかったから。」
「選手が監督の命令を無視して、暴走したから。」
程度でしかその敗因研究がされなかったならば、1998年フランスワールドカップに出場することはできなかっただろう。
成功したことについては過信せず、失敗したことについてはその原因を追及するということは日常生活の中でも当たり前に行われているにも関わらず、膨大な犠牲を出した太平洋戦争についてはその失敗の原因が語られることはなかった。太平洋戦争の失敗の研究がなされなかったのは、敗戦国の日本を半永久的に同じ過ちを繰り返し行わせようという戦勝国側の故意的な意図があったとのではないかと、個人的にに考えている。
「日本はなぜ、太平洋戦争(大東亜戦争における日米戦争の呼び名)に敗北したのか?」
1992年12月~93年8月にNHK総合テレビで放送され、今年8月にDVDで発売されることが決定したNHKスペシャル「ドキュメント太平洋戦争」と、戦略の古典的バイブルと言われるリデルハート「戦略論」から、太平洋戦争における敗北の理由を考えてみよう。
「ドキュメント太平洋戦争」は、その完成度とインパクトの強さからシリーズをめぐって様々な意見が寄せられ、単に50年前の戦場での問題ということを越えて、今日の私たち日本人に多くのことを問いかけた。インパール作戦の裏でどの様なことがあったのか追った「第4集 責任なき戦場」は、文化庁芸術作品賞を受賞し、改めて内外からの評価の高さを示した。キャスター:山本 肇 語り:長谷川勝彦
日本人とはどのような民族特性があり、その特性ゆえに極限の戦場の中で、どのような決断がなされ、戦争をどのように好転もしくは悪化させていったのか、我々、日本人が太平洋戦争の敗北について学ぶことは我々自身について学ぶことなのである。
リデルハートの間接アプローチ
リデルハート 1895年10月31日 - 1970年1月29日)とは第一次世界大戦に従事した経験もあるイギリスの軍事評論家である。彼の著書『戦略論―間接アプローチ』が戦略論の古典的バイブルとして、有名なのは、第二次世界大戦において、ドイツ国防軍がリデルハートの間接アプローチを応用して、電撃戦を組み立て、少ない国力で、フランス西部戦線、オランダ侵攻、ベルギー侵攻など多大な功績をおさめたからである。第二次世界大戦後においても主流となったのは彼の間接アプローチ理論であり、1991年のイラク戦争においても彼の間接アプローチ理論が採用されている。間接アプローチ(Indirect approach strategy)とは正面衝突を避け、間接的に相手を無力化・減衰させる戦略(wikipediaより抜粋)のことである。これだけでは、少しわかりずらいかもしれないが、間接アプローチとは、「将を射んとせば先ず馬を射よ(しょうをいんとせばまずうまをいよ)」のことだと言い換えれば、日本人にとっても、馴染み深くなると思う。大きな目的を達成するためには、その目的そのものに直進するのではなくて、その周囲から攻めるのがよいということを日本人なら過去の歴史から知っているからである。
例えば、大阪城を落城させるために、徳川家康は大阪冬の陣の和議において、大阪城の外堀を埋めさせたのは間接アプローチの代表例である。また、織田信長が石山本願寺を攻略する際に、本願寺に物資補給する毛利水軍を、織田の九鬼水軍による鉄甲船で撃退(1978)し、大阪湾の制海権を握った後、兵糧攻めを行ったのも間接アプローチの代表例として、日本史に燦然と輝いている。難攻不落だと思われた石山本願寺が信長に和議を結ぶことになったのは、制海権を失った2年後の1580年(天正8年)である。
しかし、間接アプローチとは、間接的でありさえすれば、何でもありなのかと言えば決してそうではない。リデルハートは「戦略論」第20章の「戦略及び戦術の真髄」において、次のように戦争の原則をまとめている。
積極面6ヶ条
1.目的を手段に適合させよ。
「目的を決定をするにあたっては、明確な見通しと冷静な計算とを重視すべきである。「消化能力以上の貪欲」は愚である。軍事的英知は「何が可能か」を第一義とする。それゆえ、誠実を旨としつつ、事実に直面することを学ぶべきである。(略)」
無理な作戦立ててはいけないということ。不可能な作戦を精神論でなせばなる的に押し通すのはやめなさいということを積極面第1ヶ条で、リデルハートは述べている。
2.目的を常に銘記せよ。
「計画を状況に適合させる間、常に目的を明記しなければいけない。目的達成のために方法は1つではなくてそれ以上あるが、しかしいかなる目標も必ず目的に指向されるように細心の注意を払う事を忘れてはならない。(略)」
目標が目的に取って変わるということは日常生活の中でしばしば体験することがある。例えば、環境問題を解決するために、大学に行きたいと考えていた学生が、その目的を忘れ,受験勉強で成功するという目標自体が目的に取って変わられて、名声の高い大学に入学したものの、他の大学の方が環境問題を学ぶ上で適しているなんてことはよくある。リデルハートは積極面第2ヶ条で「初心忘れるべからず」と戒めているのである。
3.最小予防線(最小予期コース)を選択せよ。
「敵の立場に立ってみる事に努め、敵が先見し又は先制することが最も少ないコースはどれであるかを見よ。(略)」
計算だけでは決して計測することはできない相手の心理面を考慮に入れろということをリデルハートは積極面第3ヶ条で述べている。常に相手の立場に立って相手がどのように行動するのかを予測することがが重要なのだ。
4.最小抵抗線を乗ぜよ。
「わが方の基本的な目的に対し寄与すべき目標へ指向されているという条件を充たすところの最小抵抗線を利用すべきである。(戦術においては、この金言は予備兵力の使用に適用し、戦略においては随時の戦術的成功の利用に適用するものである。)」
相手の弱点を徹底的に攻撃せよとリデルハートは積極面第4ヶ条で述べている。
5.代替目標への変更を可能にする作戦線をとれ。
「こうすれば、敵をジレンマの立場に追い込み、敵の守備の最も薄い目標を少なくとも1つは攻略できる機会を確保するところまで、進む事ができ、またそれを手がかりとして逐次攻略することが可能となろう。(略)」
例えば、攻撃目標が1つしかないのであれば、攻撃される側にとってはその目標地点に全兵力を集中すればよいので防備することは比較的用意であると言える。しかし、相手がどこを攻めてくるのか全くわからないとしたら、守備兵を分散しなければいけないので、攻撃する側にとっては、各目標地点を個別撃破することも可能になる。
6.計画および配置が状況に適応するよう、それらの柔軟性を確保せよ。
「わが方の計画は、成功を収めた場合もしくは失敗に陥いった場合又は部分的に成功を収めた場合において次のステップを予見し、それを生み出すべきである。わが方の配備(又は隊形)は最も短時間のうちに次のステップの利用、換言すれば状況への適合を許すようなものにすべきである。(略)」
作戦が成功した場合、失敗した場合、部分的に成功した場合など、結果がどのようになってもそれらに対して対応できるように、作戦に対して十分な柔軟性を確保すべきだとリデルハートは積極面第6ヶ条で述べている。
消極面2ヶ条
1.対手が油断していないうちはー対手がわが攻撃を撃退し又は回避できる態勢にあるうちは、わが兵力を打撃に投入するな
「非常に劣勢な対手に対する以外には、対手の抵抗力又は回避行動が麻痺状態に陥らない限り、効果的打撃を加えることは不可能であるということは歴史上の経験の示すところである。であるからこのような麻痺状態が十分に進行していない限り、いかなる指揮官も敵に対する真面目な攻撃を発起すべきではない。麻痺状態は敵の組織の崩壊及び精神面での組織崩壊の同等物である指揮崩壊によって引き起こされる。(略)」
正面突破の攻撃方法は味方の被害が甚大であるから、極力避けよとリデルハートは消極面第1ヶ条で述べている。まずは心理面などの間接アプローチで相手の抵抗力削いだ上で、効果的な打撃を相手に与えることが非常に重要なのである。
2.一たん失敗した後は、同一の線(又は同一の形式)に沿う攻撃を再開するな。
「単なる兵力の増強は必ずしも新規の線に沿う攻撃を意味しない。そのわけは、敵もまたその休止の間において自己の兵力を増強しているであろうことはありうべきことであるからである。わが方を撃退した敵の成功が敵を精神的に強化するであろうことは、さらにもっと有り得べきことである。(略)」
人間というのは一たん、失敗した時に、その原因を自分の努力不足に結論づけてしまい、全く同じ方法で、全く同じ相手と対戦して、また敗北してしまうというケースはよくある。対戦相手も前回と同じ方法で攻撃してくれるのであるから、防御するのも、相手の攻撃方法の予測がつくので、非常に簡単になる。なぜなら、失敗した方法を再度繰り返すのは、相手を心理的に安心させる直接アプローチになってしまっているからだ。一たん失敗した後は同じ方法や形式で再度攻撃を再開するなとリデルハートは消極面第2ヶ条で述べているのである。
艦隊決戦主義と太平洋シーレーンの破壊
「日本はなぜ、太平洋戦争(大東亜戦争における日米戦争の呼び名)に敗北したのか?」その理由をリデルハートの戦略論に基づいて、以下詳細に考えていこう。
ところで、まず日本はなぜアメリカと戦争をしたのかお分かりだろうか?意外にこれほど基本的な質問にさせ答えを窮する人が多いと思うので、日本がアメリカとの戦争を決意した経緯とその理由について簡単に振り返ってみよう。
1937年7月、北京の盧溝橋で起きた発砲事件を契機に、日本軍と国民党政府が日中戦争という戦争状態に突入し、しだいにその戦場は拡大していった。その後、中国国民党率いる中華民国政府の首都・南京を陥落させたが、アメリカやイギリス、ソ連からの軍需物資や人的援助を受けた蒋介石は首都を重慶に移し、国共合作により中国共産党とも連携して徹底した抗日戦を継続することになる。この連合国による中華民国政府に対する人的、物的支援によって、日中戦争は泥沼化していく。アメリカ、イギリスは日本が戦争継続に必要な軍事物資、石油と鉄鋼の輸出制限を行うという強硬な対日政策を行う。1941年4月から日本の近衛文麿内閣はアメリカとの関係改善のために渡米するが、事態の改善を図ることはできず、「資源のない日本」は戦争を継続するために必要な資源の獲得と、英米の物資の輸送大動脈である援蒋ルートを断ち切るために、1941年7月、南部仏印に進駐した。

これに対し、アメリカのルーズベルト大統領は在米日本資産の完全凍結と石油輸出全面禁止という更なる強行措置に出る。当時、アメリカに90%の石油とほぼ100%のくず鉄を輸入していた日本にとって、取りうる選択肢は「中国からの完全撤退」か「対米戦争の決意」という2つの選択肢しか残されていなかった。
それでは、アメリカが中国と戦争している日本に対して、なぜこれほど強圧的な態度を取っていたのかというと、アメリカは、1929年に始まる世界大恐慌から脱出するために、大規模なデフレ対策としての公共事業として、大規模な戦争を必要としたためである。そのスケープゴートに日本が選ばれたのである。アメリカが世界大恐慌を克服したのはニューディール政策という公共事業を行ったからだという神話を今でも信じている人が多いが、実際は、対日戦争によってアメリカはその未曾有の大恐慌から脱出することに成功したのである。本稿では、日本がなぜアメリカと戦争をしたのかを述べることが目的ではなく、「日本はなぜ、太平洋戦争(大東亜戦争における日米戦争の呼び名)に敗北したのか?」をリデルハートの戦略論を基に、明かにすることが目的なので、以下の永井俊哉氏の論文を紹介するに留めておく。
ルーズベルト大統領は、ニューディールという平和的な公共事業で、アメリカ経済を世界大恐慌から救うことができたという神話をいまだに信じている人もいるが、実際には、ニューディールは失敗に終わっており、アメリカ経済を世界大恐慌から救ったのは、第二次世界大戦の特需である。戦争は、民族・宗教・イデオロギーの対立が原因で起きるわけではない。それらはたんに戦争主体を区別するのに役立つ徴標に過ぎない。戦争、とりわけ大規模な戦争の原因はデフレである。
デフレ局面においては、供給が需要に対して過大であるから、働き盛りの男性である兵士に殺し合いをしてもらって、労働市場における供給過剰を削減することが求められる。しかし男性労働者は消費者でもあるから、デフレ解消という点では逆効果の面もある。だから、リフレ型戦争では、大量破壊兵器を用いて、人間以上に施設を攻撃し、過剰になった生産設備を削減することに力が注がれる。
そして、「中国からの完全撤退」もしくは「対米戦争の決意」を決定する国策再検討会議が1941年10月に開催された。その国策会議で決定されたのは前者ではなく、後者の「対米戦争の決意」である。日米開戦と同時に日本は東南アジアの資源地帯を抑え、ドイツがヨーロッパ戦線で勝利する事を前提に戦争を継続して、有利な条件でアメリカと講和するという作戦がその会議で決定されたのである。
しかし、資源のない日本が、この作戦を成功させる唯一の鍵は「海上輸送」である。当時において、日本とアメリカの国力は全く桁外れに差があった。戦争を継続させるために必要な石油も石炭もボーキサイトもスズも食料もすべて海外に依存している日本はそれらの資源を日本に運ぶ「海上輸送」こそが最大の課題であったのだ。
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日本とアメリカの継続力比(1941年:左の数値が日本、右がアメリカ)
石油 1 : 721
鉄鋼 1 : 18
GNP 1 : 13
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ここで、リデルハートの積極面第4ヶ条:最小抵抗線を乗ぜよを思い出して頂きたい。
「わが方の基本的な目的に対し寄与すべき目標へ指向されているという条件を充たすところの最小抵抗線を利用すべきである。(戦術においては、この金言は予備兵力の使用に適用し、戦略においては随時の戦術的成功の利用に適用するものである。)」
相手の弱点を徹底的に攻撃するのは戦略の初歩中の初歩である。つまり、日本の最大の弱点は資源がないゆえの「海上輸送」だったのであるから、このシーレーンを破壊することが、アメリカの対日戦争において、最優先事項であったことは、容易にご理解いただけると思う。アメリカはリデルハートの間接アプローチに従って、日本の「海上輸送」の破壊という作戦を開戦以後、忠実に実行している。
しかし、日本軍も「海上輸送」が日本の生命戦線であることは認識していた。1941年11月15日の御前会議において、枢密院議長である原嘉道によって、日本の海上輸送が問題なく実行できるかどうか、軍令部総長の永野修身と企画院総裁の鈴木貞一に対して質問している。軍令部総長の永野修身は防御強化の対策をしているので、海上輸送に問題はないと返答し、企画院総裁の鈴木貞一は船舶の損耗率は陸海軍の共同研究で正確な数値が見積もられているので、対米戦争に全く支障はないと返答している。企画院総裁の鈴木貞一が提出した陸海軍共同研究による船舶の損耗量と実際の損耗量は以下の通りである。
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開戦時1年目の船舶損耗量(見込み/実際):80万トン/96万トン
開戦時2年目の船舶損耗量(見込み/実際):60万トン/169万トン
開戦時3年目の船舶損耗量見込み/実際):70万トン/392万トン
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船舶損耗量の見込みと実際とで、大きな違いがあるのにお気づきになられると思う。極めていい加減な見込みを基にして、1941年11月15日の御前会議において、日米戦争が決意されたのである。開戦時における日本の船舶は600万トンあったが、この内300万トンを南方からの資源や食料を運ぶ資源輸送船に、残りの300万トンを兵士や武器を運ぶ軍用船に割り振ることになった。詳細な戦争の経緯を述べる前に、なぜ日本の船舶はこれほどまでに、損耗していったのかと不思議に思われたに違いない。陸軍省戦備課の田辺俊雄少佐は当時の船舶損耗量の決定方法は極めて、希望的観測的であり、杜撰以外の何者でもなかったと断罪している。
日本は対米戦争に当たり、その戦争遂行目的を民族の「自存自衛」と「大東亜共栄圏建設」と位置づけていた。日本民族が「自存自衛」するためには、アメリカと戦争を行うに際して石油、石炭、ボーキサイトを輸送する東南アジアから長い海上シーレーンを防御しなければいけない。しかし、この長いシーレーンをどのように守るかという極めて重要な問題に対して、日本には戦略も装備も全くなかったのである。
そんな馬鹿なことはあるのかと多くの方はお考えになられるだろう。あれだけ多くの日本人を死に追いやった太平洋戦争において、日本の生命線である東南アジアから5,000kmにも渡る輸送レーンの護衛に対して、戦略も装備もなかったなんて一体どうなっているんだと著者自身もこの戦争を勉強する際に再三不思議で仕方がなかったのである。開戦時に輸送船を護衛する海防艦はたったの4隻しかなく、海上護衛総司令部が出来たのは1943年9月の御前会議以後である。日本は海上輸送において、防御強化の対策をしているという永野修身の発言は全く虚言だったということになる。
しかし、大本営が海上シーレーンの防御を軽視していたのには理由がある。日米開戦において、日本は未だ醒めやらぬ「大鑑巨砲主義」の夢の中にいたのだ。「大鑑巨砲主義」とは海軍力の主力として、戦艦が最重要視され、この戦艦同士の戦いにより戦争の勝敗を決定するという考え方である。相手の戦艦に対して、より強力な戦艦を作り、相手の重心を打ち砕くという「大鑑巨砲主義」の考え方は極めて直接アプローチ的な発想である。これに対して、海上シーレーンを破壊することで、日本の戦争遂行を不可能にするというアメリカが取った方法は間接アプローチ的な発想である。「大鑑巨砲主義」の夢の中にいた日本は頭では、海上シーレーンを護衛することは極めて重要であると認識していたのだが、それが実行に移される事もなく、輸送船の航海は護衛艦のない単独航行で行われていた。これに対し、アメリカは日米開戦後すぐに、「無制限潜水艦作戦」を発動し、日本の輸送船をことごとく沈める作戦を取った。
日本は開戦前に日本の弱点である海上輸送を認識しながら、その防衛に対して、何ら戦略も装備もなかったという時点で日本は戦う前から敗北していたのである。、リデルハートの積極面第4ヶ条:最小抵抗線を乗ぜよを忠実に遂行したアメリカに対して、何ら対策を講じなかった「資源なき」日本が勝利することなどできるはずがなかったのである。

しかし、アメリカ側にも、「無制限潜水艦作戦」という間接アプローチを実現するに際して、大きな誤算があった。魚雷の性能に大きな問題があったためである。開戦1年目に、日本側の実際の船舶損耗量が陸海軍共同研究で事前に提出された数値と大きく異ならないのは、アメリカの魚雷性能の性能に問題があったからである。歴史の悲劇というか、開戦初期における、アメリカの魚雷性能の欠陥問題によって、日本はより「海上輸送」を軽視することになった。開戦初期の南方作戦の大成功に乗じて、日本は作戦地域をアッツ、ミッドウェー、ガタルカナルと拡大させたのだが、これが日本の命取りになることになった。1942年6月、日本はミッドウェー海戦で大敗北を被り、同年8月のガタルカナルではラバウルから輸送船団をアメリカの潜水艦隊にことごとく沈められ、日本陸軍は飢餓に追い込まれるという大失態を演じることになった。
ここで、積極面第1ヶ条:目的を手段に適合させよから、この時の日本軍の作戦を考えてみよう。
「目的を決定をするにあたっては、明確な見通しと冷静な計算とを重視すべきである。「消化能力以上の貪欲」は愚である。軍事的英知は「何が可能か」を第一義とする。それゆえ、誠実を旨としつつ、事実に直面することを学ぶべきである。(略)」
資源のない日本が、アッツ、ミッドウェー、ガタルカナルまで作戦地域を拡大させることははたして、可能であったのだろうか?遠方に物資を運ぶには大量の石油が必要であるし、輸送距離が長くなればなるほど、アメリカ海軍の潜水艦によって、輸送船が撃沈される可能性が高くなのである。実際に、ガダルカナル島争奪戦において、 補給基地ラバウルからガタルカナル島までの距離はたった1,000Kmしかないのに、輸送船はことごくアメリカ潜水艦隊によって撃沈されているのである。作戦を遂行するためにはリデルハートが述べているように明確な見通しと冷静な計算とを重視されなければならない。一体どのような作戦が実行可能で、どのような作戦が実行不可能であるのかということの見極めこそ大本営の重要な仕事なのだが、不可能な作戦を精神論で無理矢理実行すればなんとかなるという馬鹿の論理が、大本営ではまかり通っていたのである。
一方、アメリカは、開戦初期の魚雷性能の欠陥という問題点の改善を、陸軍兵器局の軍事顧問であったアインシュタインに依頼し、この天才物理学者は起爆装置の改善によって、アメリカ軍の魚雷性能は飛躍的に向している。また「SJレーダー」の開発を成功させたことによって、アメリカの潜水艦隊は闇夜でも日本の輸送船を攻撃できるようになったのである。
ここで、リデルハートは積極面第6ヶ条:計画および配置が状況に適応するよう、それらの柔軟性を確保せよ。を取り上げてみよう。作戦が成功した場合、失敗した場合、部分的に成功した場合など、結果がどのようになってもそれらに対して対応できるように、作戦に対して十分な柔軟性を確保すべきだとリデルハートは積極面第6ヶ条で述べている。作戦が十分に柔軟性を確保できるために、アメリカ軍は現場の報告書を十分に取り入れ、魚雷性能の向上などに取り組んでいたが、日本軍はどれだけ輸送船がアメリカ潜水艦に沈没されても、大本営が何ら早急にその対策を講じることはなかった。
1942年の12月の御前会議において、「海上輸送」の大問題により、東南アジアの米に依存していた国民生活が窮乏に追い込まれ、鉄鉱石不足のために、新たに生産される船舶が性能が著しく劣るという粗悪品になっているということが報告されるが、大本営は戦争を継続させるために、国民生活に必要な資源輸送船の内、58万トンを軍事用へ回す事を決断する。しかし、この御前会議においても日本の輸送船に護衛艦隊をつけるということが全く話し合われることはなく、「海上輸送」の大問題はさらに深刻化していくことになった。
1943年秋頃から、日本-シンガポール間という日本の生命線である「海上輸送」の大動脈がアメリカ潜水艦隊によって、甚大なる損害を被ることになる。1943年9月の御前会議において、本土防衛と戦争継続のために必要不可欠である絶対国防圏を定め、同地域において輸送船を護衛することが決定される。そして、御前会議の2ヶ月後に海上護衛総司令部がようやく設置されることになったが、日本側の「海上輸送」問題に対する対応は余りにも時期が遅すぎた。開戦時に4隻しか存在しなかった海防艦(輸送船団の護衛を任務)の建造に拍車がかかったのは1944年に入ってからのことであった。しかし、日本の海防艦建造能力には問題があり、1つの輸送船団に対して、護衛できる海防艦の数は1-3隻でしかなく、数、能力ともに飛躍的性能の向上を遂げて来たアメリカ潜水艦隊の敵ではなかったのである。浮上して来たアメリカの潜水艦に、多くの日本の海防艦が沈められる事例が多数あったのである。日本側の「海上輸送」に対する問題が余りにも遅かった事が悔やまれる。

しかし、1944年になると、日本軍にとって事態はさらに深刻化していく。アメリカの潜水艦隊よりも恐ろしい、アメリカの高速空母艦隊が中部太平洋に進出してきたからである。1944年2月にアメリカの高速空母艦隊はトラック島を攻撃し、輸送船が34隻、20万トン沈められるという大惨事になった。1944年2月はたった1ヶ月で、日本が保有する船舶の10%(54万トン)が撃沈するという記録的な被害が報告された。1944年3月の時点で、戦争継続に必要な資源輸送船は開戦時の300万トンから200万トンにまで落ち込み、さらに30万トンが軍用船に配分されることになり、国民生活はさらに窮乏することになった。1944年夏における軍需省の報告書によると、国民生活の維持と戦争の継続はすでに困難な状況に達していると記載されているが、1944年7月にサイパンの陥落により、東条英機内閣が退陣すると、小磯内閣が発足する事になるが、終戦工作が行われることもなく、戦争は日本国民の1億玉砕を合い言葉に更なる悲劇を迎えることになったのである。
1944年末には、日本とシンガポールを結ぶ「海上輸送シーレーン」はアメリカ軍の攻撃によって、命脈つきかえていたが、1945年になると、南シナ海にアメリカ空母艦隊の中でも、史上最強と呼ばれたハルゼー艦隊が登場することになる、1945年1月に、資源輸送の大船団と練習巡洋艦「香椎」,海防艦大東,鵜来,海防艦23,27,51号はハルゼー艦隊の標的となり、海の藻屑となった。ここに日本の「海上輸送」ルートは完全に途絶えたのである。
練習巡洋艦「香椎」(司令:渋谷紫郎少将),海防艦大東,鵜来,海防艦23,27,51 合計六隻
タンカー さんるいす丸 7,268t 原油12,000t
極運丸 10,045t 原油12,000t
大津山丸 6,859t B重7,100t,航空燃料400t,揮発油100t,1号重油200t,生ゴム1250t,
優清丸 600t 原油 800t
貨物船 辰鳩丸 5,396t 生ゴム,錫,ボーキサイト,染料
建部丸 4,519t 航空燃料,生ゴム,マンガン,コプラ,ヒマ,牛皮など3,400t等
豫州丸 5,711t 生ゴム,ボーキサイト
永萬丸 6,968t 生ゴム,ボーキサイト
昭永丸 2,764t 重油2,569t,生ゴム400t
No63播州丸 533t 原油 430t
戦後、戦略爆撃調査団・副団長のP・ニッツェ元国務次官補は、日本を降伏させるためには、「海上封鎖」のみを行えば十分で、ソビエトの対日参戦も、本土上陸も、原爆投下も必要なかったと証言している。つまり、「海上封鎖」を完全に行われた時点で日本の敗北は決定したということになる。さらに言えば、「海上輸送」が重要であると認識していたにも関わらず、何ら対策を講じようとしなかった大本営の組織的怠慢のために、日本は開戦前にすでに負けていたのである。太平洋戦争において、日本が失った総船舶は2,600隻、860万トン、船員死亡率は50%(死亡者6万2千人)に達し、陸海軍の軍人より死亡率が高かった。終戦後、満足に残った日本の船舶31万トンしかなかったという惨憺たる結果を残すことになった。
日本海軍の戦略思想
一. 大艦巨砲で敵艦隊を制圧し制海権を握る。
二. 制海権を握れば船団の護衛は必要ない。
三. よって最優先攻撃目標は敵艦隊。輸送船は攻撃目標ではない。
四. 船の安全は集団で行うものでなく個艦(船)であり、傭船先の海運会社が 考える問題だ。米国海軍の戦略思想
一. 補給なくして、戦闘に勝利した例はない。
二. 太平洋の戦いで、最優先すべきは輸送船の安全。
三. 敵の輸送船を阻止すれば戦いに勝てる。
四. 自国の船団の護衛は海軍の役務。operations research [策略研究]対象。
本稿の中でも、何回も紹介してきたが、日本軍の戦略思想は直接アプローチ、アメリカ軍の戦略思想は間接アプローチであった。日本はドイツ軍と同盟関係にあり、ドイツ国防軍が採用し、大成功をおさめたリデルハートの間接アプローチを学ぶことができたにも関わらず、柔軟性にかける官僚組織となった日本陸海軍はそれを積極的に取り入れようとはしなかった。現在の日本の官僚組織も過去に捕われすぎて硬直性を欠いてはいないだろうか?積極的に新しい戦略を採用する柔軟性を組織として確保しているだろうか?太平洋戦争の敗戦から我々、日本国民が学ぶべき事は多い。



