■数理モデルより導かれる合理的な予防策、蔓延抑制策とは
前回の記事(3)では基本再生産数を導入し、この数が1を超えると伝染病が大流行(エピデミック)することを説明しました。基本再生産数(r0)とは、1人の感染源保有者が何人の未感染者に病気を感染させるかを示す指標であり、集団のサイズN、感染率β、除去率γによって、r0=Nβ/γで与えられます。
前回記事(3)は硬い話に終始してしまい、読者の皆様におかれましては、「いい加減、勘弁して!」とお感じの面々もあろうかと思います。ので、今回は、上記知見に基づいて、伝染病の合理的な予防策や、万が一、集団感染が発生してしまった際の事後対処策について具体的に考えてみます。
伝染病を予防したり、発生後に蔓延を防止するには、この基本再生産数r0をなるべく小さくし、さらには1以下に抑え込めば有効であろうことは容易に推論できます。そこで、r0を小さくするために考えうる方策を理詰めで検討してみましょう。要するに、分子を小さくし、分母を大きくすればよいのです。
r0を小さくするには、簡単に実行可能なものから、【1】 感染率βを小さくする、【2】 集団サイズNを小さくする、さらに、【3】 除去率γを大きくする、の三つの方策があります。【1】および【2】は予防策に属し、【3】は事後対策に分類されます。以下、順番に説明します。
【1】 感染率βを低減させる予防策
第1回目の記事に掲載したように、「疫病の伝染は、未感染者の数(S)と感染源保有者(I)との物理的接触率に依存」します。式(1)の第1式および第2式には、[未感染者の数(S)]と[感染者数(I)]の積が含まれており、その接触率を決めているのが感染率βです。
厚生労働省は、インフルエンザの流行に対して、「うがいや手洗い」の励行を奨めていますが、その理由は、感染率βを低減させるために他なりません。
数理モデルでは、細菌学ないし病理学的側面を一切捨象しているのですが、ここで、ウィルス感染のメカニズムについての細菌学・病理学の知見が重要になります。
インフルエンザは、感染源保有者が「咳き」をすることで唾液(だえき)や鼻水の分泌物に含まれたウィルスが周囲に飛び散ってうつります。空気が乾燥しているとウィルスは空中を長時間漂いやすくなり、未感染者がそれを吸引する確率も高まります。感染源保有者の手から電車のつり革などを通じてうつる接触感染もあります。いずれもウィルスが咽喉などの細胞にとり付いてそこで増殖していくことで感染します。
ですから、関連する皆様全員!が通勤電車など人込みではマスクをかけ、帰宅後は、うがいと手洗いを励行することが重要なのです。インフルエンザが流行っているときには、そもそも感染者が潜んでいそうな人込みには意識的に行かない、ということも重要です。いずれも、感染率βを低下させる効果があります。
これらの予防行為が数値としてどれくらいβを低下させるかという評価は、公衆衛生や疫学の専門家によるコホート研究などに任せるとして、マスク着用や、うがいと手洗いの励行が感染率βの低減に効果的であることは経験的にも納得できますね。
感染率βの低減が伝染病拡大にどれくらい効果あるかを、シミュレーションによって確認してみました。初期段階で、未感染者199人、感染力のある感染者1人、そして、感染力のない罹患者が1人もいない、総勢200人の集団を考えます。この伝染病の除去率γは0.25という値に固定し、感染率βが0.01、0.005、0.0025、0.00125と順次半減していくような仮想的な状況を想定します。すると、こうしたβ値に対応して、閾値ρ(=γ/β)はそれぞれ25、50、100、200と増加します。
図8は、そのような集団における感染者数(I)の時間推移を示しています。感染率βが0.01[青]、0.005[緑]、0.0025[ピンク]、0.00125[紫]と減少するにつれて、感染者数のピーク値も減少し、特に、紫の曲線は横軸に貼りついています! 閾値ρが初期未感染者数S(0)(=199)よりも大きいと、伝染病は少人数が感染するだけで終わり、それ以上には拡大しません。
図8.感染率βを減少させることが、200人の集団での感染者数(I)の時間推移に与える効果
感染率βを減少させると、感染者数の累計が減るので、伝染病終結した後に、未感染のままに留まれる個体数を激減させずにいられます(図9参照)。
図9.感染率βを減少させることが、200人の集団での未感染者数(S)の時間推移に与える効果
このように、感染率βを低下させることは、感染者数(I)を減少させ、ひいては、より多くの未感染者を未感染のままに留まらせることができます。
皆さんも、面倒くさがらす、人込みではマスクを着用し、帰宅後は、うがいと手洗いを励行しましょう。
【2】 感染可能人口の低減という意義を有する集団予防接種
2番目の予防策は、未感染者の集団(S)の初期サイズS(0)(≒N)を小さくするものです。
毎年、インフルエンザ流行の時期を前にして、11月末から12月中旬に掛けて、インフルエンザ予防ワクチンの接種が呼びかけられています。皆さんは、一回3,500円程度する予防接種を高いな!と思いながらも、①予防的な免疫獲得によってインフルエンザに罹患し難くなることや、②たとえ自分がインフルエンザに罹患したとしても症状を悪化させないことを期待して予防ワクチンを接種していると思います。
予防ワクチン接種の意義は、個々人の立場からすると、こうしたミクロな意味しかないのですが、SIRモデルの教える「エピデミック」防止の観点からは、むしろ、マクロ的な感染拡大を防止するために、「感染可能な人口数(N)を低減させる」、つまり基本再生産数r0を小さくする、ということに本来の意義を有しています。
これがどれ程の効果をもたらすか、簡単に計算してみましょう。
いま、ある集団で初期段階での未感染者(感染可能者)の数がS(0)(≒N)人いるとして、その内のp割(0≦p≦1)の人達が、インフルエンザ予防に威力のあるワクチンを接種しているとしましょう。そうすると、ワクチン接種率pの集団でウィルスに実質的に感染可能な人数は、元もとのN人から(1-p)Nに減少することになります。このとき、予防接種を受けていないときの基本再生産数r0=Nβ/γは、r'0=(1-p)Nβ/γとなります。繁殖することが使命であるウィルス側にとって、この予防ワクチン接種による感染阻止策の威力は甚大です。前回の記事(3)の図7を思い起こして下さい。基本再生産数r0(ウィルスにとっては繁殖率)が5もあれば、その集団の罹患率Πはほぼ1に近く、つまり、ウィルスはほぼ全員に感染して伝染病を蔓延させられるのですが、感染対象の集団が例えば80%程度の集団予防接種を受けていると、その場合の繁殖率r'0は(1-0.8)×5=1に激減してしまい、もはや「流行(増殖)」できなくなるのです。このように、集団(=社会)を構成する個々人の感染予防が、結果的に社会全体の防衛につながっているのです。
このことは逆に、想定する集団における、伝染病予防のために必要とされるワクチン接種率の目安を与えます。感染すれば必ず死に至らしめたり、致命的な後遺症を残したりする「激烈」ウィルスに対しては、罹患率をほぼゼロにするため、繁殖率を1程度に抑制しなくてはなりません。そのためには、集団の8割強に予防ワクチンを接種しなければ「激烈」なウィルスの蔓延を抑制できないのです。
伝染病の感染の拡大を防ぐために必要な予防接種率pは、上記のr'0<1の条件をpに対して解くことで、p>1-1/r0程度に設定するのが合理的です。
こうした観点の下で、国民人口1億2000万に対して、2009年初頭に報道されていた新型インフルエンザに対するプレワクチン3000万本という本数が充分なのか、焼け石に水なのか、について考えて見ましょう。
3000万本という数字を少ないとみて、「社会的機能維持者に先行して接種してゆく」という政府方針に関する議論が報道されています。政府の云う「社会機能維持者」とは、医師、警察官、自衛隊員、国会議員のことです。確かに、3000万本のプレワクチンでは人口1億2000万人の集団サイズNに対して、予防接種率pとしても25%にしか過ぎません。ワクチン接種後の基本再生産数r'0は、まだ4/3≒1.33で1より大きいので、図7より罹患率は最大45.4%程度になることが予測されます。プレワクチンに薬効があったとしても、新型インフルエンザの感染が拡大した場合には最悪、国民の半分弱の感染は免れないのです。但し、想定外の型のインフルエンザが流行した場合、プレワクチンの効果はほとんどないという事態も想定されます。その場合には、プレワクチンの接種によってもN低減の効果はなく、新型インフルエンザの蔓延は抑制できないことになるでしょう。
これまでのプレワクチン接種に関する議論では、全国一律に国民全員を対象に接種をせよ、という意見もあるようですが、大都市のような人口密集地もあれば、限界集落のような超過疎地もあり一概に人口の80%分のプレワクチンを備蓄すべきともいえません。
まず、職業柄、感染者に直接接する必要のある医療従事者や消防署の救急搬送者らに先行して予防接種をすることに疑問の余地はありません。しかし、人口密集地に関しては、例えば、1000万人都市であれば、その80%の800万人分のワクチンを準備しておけば、集団感染によるエピデミックは回避できることになります。といっても、この場合には予防ワクチンを接種しなくてはその効果は期待できません。予防ワクチンとは、新型インフルエンザ感染者よりウィルスを採って培養して作るワクチンですので、最初に感染拡大が起こる際には時間的に間に合わないでしょう。
3000万本のプレワクチンしか準備できない、ということであるならば、人口の規模の拡大につれて感染のリスクは急増し、もしウィルスの毒性が強くて致死率が高いなら大都市に居るほど生存の確率は低くなると覚悟しておきましょう。
最後に政府の試算を紹介しておきます。現在、厚生労働省は国民の25%ぐらいが新型インフルエンザにかかると試算しています。約3,200万人が感染し、死亡率2%、約64万人を最大の犠牲者数と推計しています。この試算について、あなたはどのように判断されますか?
今回も既に沢山のことを書いてしまいました。三番目の対策、除去率γを低減させる方策については、次回にまわすことにして、要点をまとめておきます。
● 数理モデルより導かれる合理的な予防策とは、伝染病の「エピデミック(流行)」の条件を規定している基本再生産数(r0 = Nβ/γ)を小さくすることに他なりません。
● 分子にある感染率β低減のため、インフルエンザの流行する季節には、人込みへのお出かけの際にはマスク着用を心がけ、帰宅後には必ずうがいと手洗いを励行しましょう。
● また、分子にある感染可能人口Nを低減するため、予防ワクチンの接種は積極的に受けましょう。個々人の感染予防が社会防衛につながるのです。




